先日、ドキュメンタリー映画『うまれる』を観に行きました。
どのような映画なのかを簡単に説明します。
四組の夫婦が登場します。
一つ目は、伴夫婦。
親からの虐待をうけた妻、両親との不仲から子供や家族というものに不安を感じている夫。
この若い夫婦を、妻が妊娠6か月のときからカメラは追い、不安を抱えながら二人で出産予定日を迎える。
二つ目の夫婦は、松本夫婦。
18トリソミーという染色体異常による重い障がいをもった虎ちゃんを産んだ、二人。
生まれることだけでも、確率が低いのに、うまれても90%の子どもが1年以内に亡くなる。
妊娠中に、産むかどうか選択を迫られたり、いつ終わるか分からない虎ちゃんとの生活を、二人はどのように受け入れ、日々何を考えて三人の生活を送るのか。
三つ目の夫婦は、関根夫婦。
出産予定日に、お腹の子供が亡くなるという悲しい過去を持つ二人。
悲しみと、どうして私だけ?という疑問と自分を責める思い。
そこから二人を救ったのは、ある産婦人科の先生だった。
最後、四つ目の夫婦は、東夫婦。
9年間もの不妊治療を行った、二人。
最初の3、4年は期待に胸がいっぱいだったが、その後、子供ができない人生を受け入れることに決めた。
現在は、妻は日本で有数の不妊治療の病院で部長として働いている。
自分の不妊治療の経験から患者にアドバイスができることに、やりがいを感じてはいるが、それとは同時に、その病院には子供を堕ろす患者も来院することに、戸惑う自分がいる。
基本的に、この四組の夫婦のインタビューやそのときの夫婦の状況を中心に映画は進みます。
途中、専門家(産婦人科医、助産師、出産コーディネーター、など)や、その他の母親たちのさまざまな意見や話が挟まれています。
で、
映画の感想ですが、
よかったです。
何がよかったのかというと、色々な見方ができるなぁというところです。
映画では様々な人が、自分の意見、体験を語ります。
その一つ一つは、語り手本人の考えや信念に基づいて語っているのですが、映画全編を通してみるとそれらの言葉は、混ざり、溶けて、ひとつのふわふわとした一つのかたまりになっています。
そして、エンディングの伴夫婦の笑顔で、そのふわふわとしたかたまりは、結果的に温かいものに思えます。
いや、その温かく見えたことも、僕個人の一つの見方でしかないでしょう。
それはまるで、見る人によって形を変える雲のようなものです。
「結婚したら子供を作るのが幸せ」ということや、「子供は、親を選んで生まれてくる」「どんな子供も、望まれて生まれてくる」「どんな障害があろうと、生まれてきてくれてありがとう」というようなことを、語らせたり、仄めかしたりするのではなく、(いや、語ってもいるし、仄めかしてもいるのですが) そのとき映画を見ている一人ひとりが、自分のこととして考えられるような映画でした。
個人個人の状況で思うところがちがうし、考えることもちがう。
人の悲しみやつらい状況を、あるいは、喜びや幸せを、他人の僕らは本当に理解できるのだろうか?
もしかしたら、上辺だけの同情や、憐れみだけにしかならないのかもしれない。
あるいは、相手は喜びや幸せを感じているのに、勝手にこちらが忖度して同情や慰めの気持ちになっているだけかもしれません。
もしかしたら、となりで観ていた妻も、僕とは違うことを考えていたかもしれない。
それぞれの家族で、もっといえば、母、父、それぞれ一人一人で思うことも違うし、感じたことも違うはずです。
ぼくも、1さいの子供がいるので、いろいろ考えましたが、僕がここで映画を見て子供や家族について考えたことを書いても、他の人には伝わらないし、意味がないと思います。
私があなたに「当事者であれ」と求めることはできない。なぜならそれは傍観者としての要求であるからだ。
そう、あなたはあなたでやるしかないのだ。
これは、【「当事者」の時代】佐々木俊尚 の引用ですが、本当にそうだと思います。
子供を作る、作らない。できる、できない。というようなことは、僕たち一人ひとりが、最初から最後まで、その本人一人だけが当事者として向き合うことなのだから。
あと、いいなぁ、と思ったのは上映会のシステムです。
こういうやり方だったら、地域でもできるし、もしかしたら映画不況と言われる現在、作る方にも可能性がひらかれるかもしれません。