生うどんつちやブログ

鹿児島県鹿屋市にあるうどん屋です。

コロナ禍の夜に思うこと

「カラオケを葬式で流しました。」

カラオケスナックを経営している先輩から聞いた言葉です。その店は僕もよく行くのですが、家族のような接客が心地よく、年配のお客さんが多くいます。そこでは歌うカラオケをCDに焼くことができるらしく、ご自身の葬式でかけるために前もって録音するお客さんがいるそうです。

去年から今年にかけてのコロナ禍でも、多くの著名人が亡くなりました。志村けんさんや竹内結子さんなど、それぞれに思い入れがある人もいるでしょうし、中には身近な人が亡くなったという方もいらっしゃるでしょう。

僕は横田滋さんが亡くなったことがとても心に残っています。横田滋さんは、77年に娘のめぐみさんが中学一年生の下校時に失踪します。必死の捜索でも手がかりすら見つかりません。それから20年たったある日、ひとりのジャーナリストが夫婦の家を訪ねてきて、「もしかしたら、めぐみさんが北朝鮮で生きているかもしれない」と二人に伝えます。

数時間かけてご夫婦は熱心にその話を聞き、彼が家を離れるときには、本当に嬉しそうに最後まで手を振って見送ったそうです。そこから横田滋さんは日本各地の被害者家族とともに家族会を結成して、なかなか動かない政府と世論を相手に地道に活動を広げていきます。

そして2002年には、小泉訪朝で北朝鮮側と交渉がはじまります。しかし、そこではもうめぐみさんが死んでいると北朝鮮側からの報告を伝えられます。それと同時にめぐみさんのものだと遺骨を渡されます。そのときの記者会見で滋さんが「いい結果が出ることを楽しみにしていたが、こんな結果とは…」と涙ながらに語っていた姿を多くの人も覚えているのではないでしょうか。しかも、これでも終わりません。持ち帰った骨を鑑定すると、どうやらめぐみさんの遺骨じゃないことがわかりました。そのとき、どんなお気持ちだったのか想像だけでも心がいたみます。

滋さんたちは、2014年には孫のウンギョンさんとモンゴルで会います。(ヘギョンの名が知れ渡ってましたが、本名はウンギョンで、ヘギョンは幼名)孫と過ごした5日間はそれはそれは楽しい時間だったそうです。

そんな滋さんが2020年6月5日、入院先の病院で亡くなりました。


1950年代の日本人は9割は自宅で死んでいました。それが現在は、9割は病院で亡くなっています。自宅で亡くなる人と、病院で亡くなる人の割合がちょうど交差する時期は、めぐみさんが拉致された時期と奇しくも重なります。

私たちは人の人生を外からみて、それが断片的で一面的な見方であっても、それを参照にして自分の人生を鑑みるものです。それは倫理的に正しいとか正しくないということではなく、人とはそういうものです。あの素朴で優しい語り口の滋さんには、他人には想像もできないような人生があったことでしょう。その最後をどのような気持ちで迎えられたのでしょうか。誰もがそれぞれの人生があり、その最後をどのように迎えるか、予想通りには行かないとわかっていても、考えることはできます。

このコロナ禍では、完全な社会の悪者となっている、カラオケやスナックですが、東京都立大学教授で「スナック研究会」を主催する谷口功一氏は、夜の社交の場としてそのような店が「公共圏」として役割を果たしていたと訴えています。例えば地方部では公的助成を受けた「夜の公民館」的なスナックや、要介護者のための「介護スナック」といった取り組みもあるといいます。

冒頭のカラオケスナックの経営者は生前に録音したカラオケを葬式で流し、遺族の方から、こんな一面もあったのか、元気な声がまた聴けてとてもうれしいと、これまで何度も感謝されたそうです。

横田滋さんの妻早紀江さんは、ほぼ毎日のようにお見舞いに通い、手足などをさすって話しかけていましたが、20年春からはコロナ感染防止のため面会もできなくなりました。そして最後は、孫のウンギョンさんにもう一度会いたいと、滋さんはおっしゃっていたようです。

 

 

感染防止も大切ですが、横田滋さんの人生を思いながら、たまにはスナックやカラオケでお酒を楽しんでみてはいかがでしょうか。