生うどんつちやブログ

鹿児島県鹿屋市にあるうどん屋です。

食い逃げとガンマGTP

どうもご無沙汰しております。みなさん、お元気でしたか?僕は元気にしていました。

ブログがない間もこつこつと営業を続けて僕が店をはじめて15年以上たちました。

そう、もう15年すぎたのです。僕はあまり自分で自分の店の周年を発表するのは好きじゃないので、その記念すべき一日もいつも通りの営業をしました。

とはいえ、ここまでやってこれたのは、多くのお客さんとスタッフに支えられてきたからです。本当にありがとうございました。 この15年間は(本当に)いろいろあったんですが、その歴史にまた新しい一ページを刻む出来事がありました。

そう、それは食い逃げです。

うわさではもちろんあるらしいと聞いてはいましたが、実際に自分の店で起こるとは思いませんでした。いや~びっくり。

詳細は

人生初の食い逃げされた男の一度だけの突発!後半は田舎、親族、人生は一度切りって話をある漫画家と話しました。 生うどんつちやの「シラスの台地で生きていく。」 | シラス

こちらにあります。

いきなりなんだって思われたでしょうが、ブログが滞っている間にこういう活動もしてまして、食い逃げに同情するならぜひご覧ください。

 

久しぶりのブログになりました。最近はマンガを描いているので(マンガ!?)文章を書く時間を取れず、(取らず)にいました。それがなぜまたブログを書こうと思ったのか?

それは、いま巷で話題のチャットGPTだかGTPだかを使ってみたからです。(いつもわからなくなる。GTPはガンマGTP!) そう、このブログはチャットGPT4を使って書いてみました。(月額2000円だよ)

結論からいうと、何度もやり直して結局ほぼ全部僕が書いてるので、まだまだ工夫の余地があるのかな?と思っています。

 

最後は、チャットGPTが書いてくれた締めのあいさつで終わります。

 

料理の味やメニューの種類を変えたり、店内のリフォームをしたり、スタッフの交代などもあったけれど、それでもなんとかここまで続けてこれました。 15年って長いようで、あっという間だったなと思います。でも、これからもうちの店は、美味しい料理と居心地のいい空間を提供し続けます。そして、お客さんが笑顔で帰っていただけるように、スタッフと一緒に頑張っていきたいと思います。 本当に、ここまで支えてくれたお客さんやスタッフに感謝しています。これからも、どうぞよろしくお願いします。

 

ね。僕らしくないでしょ?

いや!!違った!!

100点の内容でした!

 

また書くかもしれません。では。



ちなみに、上記のブログをあらためてチャットGPT4でリライトしてもらったのが以下のものです。

長らく沈黙を守っていたこのブログから、ふたたびみなさんへ挨拶をします。みなさん、お元気でしょうか。私はここでも元気に過ごしています。

私の小さな店舗が誕生してから、もう15年以上の歳月が流れました。これまでの時間の中で、私は周年を祝うことに特別な喜びを見いだすタイプではなく、その一日も例のごとく店の営業に勤しんでいました。

しかし、ここまで持続的に店を運営してこれたのは、多くのお客様と尽力するスタッフによるところが大きい。その事実に対して、心からの感謝の気持ちを述べることができます。

この15年間、多くの出来事が舞い込んできました。その中には、予想もしない事態も含まれていました。たとえば、最近起こった出来事で言えば、食い逃げがそれにあたります。

食い逃げという行為自体は、ある種の都市伝説のように耳にはしていましたが、まさか自分の店でそれが実際に起こるとは思いもよりませんでした。それが起こった瞬間、私はただ驚きを隠せなかったのです。

詳細については、私が書いた別の記事で語っています。その記事はここで読むことができます。

ブログ更新が滞っている間に、私は食い逃げについてのエッセイを書いていました。もし興味があれば、ぜひ読んでみてください。

さて、久しぶりのブログ更新になりますが、最近はマンガを描くことに没頭しており、文章を書く時間が少なくなっていました。それなのになぜ今、再びブログを書くことにしたのでしょうか?

それは、最近話題のAI、ChatGPTを使ってみたくなったからです。その名前がChatGPTなのかGTPなのか、私にはいつも混乱を招きます。しかし、このブログの更新はChatGPT4を使って書かれています。

結果としては、ChatGPTはまだまだ発展途上であり、工夫の余地があると感じました。何度も試行錯誤を繰り返した結果、最終的にはほぼ全ての文章を私自身

が書いたものとなりました。しかし、それもまた新しい試みの一環であり、経験としては有意義でした。

私の店舗は15年間、料理の味の向上を求め、メニューの改良を試み、インテリアのリニューアルを行い、時折スタッフの交代も経験しました。それらの変化がある中でも、私たちは何とかこれまで続けてこられました。

15年という時間は、一方で長く、他方ではあっという間に感じられます。しかし、これからも私の店は、美味しい料理と落ち着ける空間を提供し続けることを約束します。そして、お客様が満足して帰っていただけるよう、スタッフとともに日々努力していきます。

ここまで支えてくれたお客様やスタッフに感謝の意を述べるとともに、これからも何卒よろしくお願い申し上げます。

と、こんな感じでChatGPTによる締めの言葉を書いてみました。しかし、私自身のスタイルとは少し違うように思います。

なんて言ってみても、いえ、逆に!これは100点満点の内容でした。

これからもブログ更新を続けるかどうかは未定です。しかし、私の考えや経験を共有するこの場があることに感謝しています。そして、また皆さんとここで会える日を楽しみにしています。

 

営業時間の変更とお知らせ。

今月から営業時間がかわり、14時30分までの営業となります。

13年間この商売をやってきて、開業当初などは一年間で2日しか休まないくらいがむしゃらに働いてきました。それがまさかこんな日が来るとは思っても見なかったです。

 

実は来年の1月を目指してぼくのシラスのチャンネルが開設される予定です。東さんやゲンロン関係者の皆さんと色々と縁がありこのような話になりました。

シラスがどんなもので、ぼくのチャンネルがどんなものになるかはとてと説明が難しいので、興味あるひとはリンク先の記事をお読みください。読まない人は「また土屋が変なこと始めた」と思うでしょうが、それでまぁ大体あってます。

 

うどん屋、フリーペーパー、文章やマンガと色々とやってますが、実はぼくの中では全てつながっています。それがまさかこんなにも早くに形になるとは思ってもいませんでした。とりあえずがんばれるところまでがんばります。どうぞよろしくお願いします。

 

president.jp

shirasu.io

フリーペーパーは店に置いてます。

遠方の方はこちらからどうぞ。

https://jp.mercari.com/user/profile/226635379

夕日と夕陽。

先日、 あるご縁から辻田真佐憲さんとご一緒させていただくことがありました。辻田さんは評論家、 近現代史研究者でその仕事を見たことがある人もいるかと思います 。

辻田さんはここ大隅の歴史的な資料、 史跡を見てまわる取材でいらっしゃいました。二階堂家住宅跡地、 吾平山稜など誰もが知っているところから、 肝付町の神武天皇御降誕傳說地など、 こんなところがあったのかと、とても興味深い体験でした。

その中にはすぐ近くにある零戦を格納していた掩体壕(えんたいごう) もありました。これは、 この地から特攻隊が飛び立ったという歴史的な価値のある史跡です 。ただ、僕は恥ずかしながら子供のころから「防空壕」 と呼んでいたので、 すっかりあの史跡は防空壕と思い込んでいました。

小さい頃の僕は父親と夕方の散歩に行っては、その「防空壕」 の上に乗って遊んでいました。そして記憶の「防空壕」への道は、 わだちの間に枯草が帯状につづく細いじゃり道でしたが、 今ではしっかりとしたアスファルトの道路に変わっており、周りにあった黒土の畑は、 資料としての掲示板が建てられた広い駐車場になっていました。

 

驚きました。僕にとっての「防空壕」は、 その土地に溶け込んでいるナニカでした。 それは子供の遊び場であり、周りは雑草も多く、 コンクリートの塊であるとはいえ、そこはただの畑の一部であり、 雨が当たらないから便利だと、 たい肥を山にして置く場所でしかありませんでした。 ずっとそのナニカのままだと思っていました。

その後の取材でもいろいろな場所に行き、 夜には私の息子も含めて三人で食事に行きました。おでんの「 黒じょか」に行き、ふだんご一緒できるようなことはないので、 聞けないような、話せないような話をずっと二人でしていました。 二次会で「716」にも行き、 そこには友人たちも偶然やってきて、 辻田さんも含めてみんなで楽しくお酒を飲みました。 辻田さんはとても親しみやすい人なので、 僕の友人たちも含めみんな楽しく過ごせたと思います。

僕もとても楽しかったです。楽しかったのですが、 それと同時にこうも思いました。 僕は友人たちに辻田さんのことを紹介はしましたが、 友人たちにはおそらく彼がどんな人物でどんな仕事をしているのか は、伝えはしても理解はできなかったと思います。 自慢したいわけではなく、それでいいと思いますし、 彼もそんなことを気にするような人ではありません。 それはまるで、 いま乗って遊んでいるものが歴史的な文化財だと分からずに遊ぶ子 供やただ便利だと畑仕事に使われるのに似ているようにも思いまし た。そして、繰り返しですが僕はそれでいいと思うのです。 僕が好きな「知的好奇心や知識」 みたいなものを僕が仮に持っていたとして、 それと同時に身近な友人たちと話ができなければそれにどんな意味 があるんだろうと。

僕は教養もないのに、このような文章を書いています。 僕を知る多くの人が「あいつは変なやつ」 と思っているのも知っています。それでも、 僕はいつかわかってほしいと思っています。 一緒に面白がってほしいと思っています。 本当にそんなことができるのか。 できたとしてどれくらい時間がかかるのだろうか。

それは何も知らずに、若い父親と「防空壕」 に乗って夕日をながめていた小さな僕が、 その経験のさまざまな意味をこの歳になって少しは理解したように 、同じくらい小さい息子が、僕がしていることや、 考えていることに、 いつかなにかしらの意味をもってもらえたらと思いました。

僕がかつて見たあのころの夕日、 かつてこの地で零戦が飛びたった夕陽。

それが歴史や時間というものの役割なのかもしれないと思いました 。

コロナ禍の夜に思うこと

「カラオケを葬式で流しました。」

カラオケスナックを経営している先輩から聞いた言葉です。その店は僕もよく行くのですが、家族のような接客が心地よく、年配のお客さんが多くいます。そこでは歌うカラオケをCDに焼くことができるらしく、ご自身の葬式でかけるために前もって録音するお客さんがいるそうです。

去年から今年にかけてのコロナ禍でも、多くの著名人が亡くなりました。志村けんさんや竹内結子さんなど、それぞれに思い入れがある人もいるでしょうし、中には身近な人が亡くなったという方もいらっしゃるでしょう。

僕は横田滋さんが亡くなったことがとても心に残っています。横田滋さんは、77年に娘のめぐみさんが中学一年生の下校時に失踪します。必死の捜索でも手がかりすら見つかりません。それから20年たったある日、ひとりのジャーナリストが夫婦の家を訪ねてきて、「もしかしたら、めぐみさんが北朝鮮で生きているかもしれない」と二人に伝えます。

数時間かけてご夫婦は熱心にその話を聞き、彼が家を離れるときには、本当に嬉しそうに最後まで手を振って見送ったそうです。そこから横田滋さんは日本各地の被害者家族とともに家族会を結成して、なかなか動かない政府と世論を相手に地道に活動を広げていきます。

そして2002年には、小泉訪朝で北朝鮮側と交渉がはじまります。しかし、そこではもうめぐみさんが死んでいると北朝鮮側からの報告を伝えられます。それと同時にめぐみさんのものだと遺骨を渡されます。そのときの記者会見で滋さんが「いい結果が出ることを楽しみにしていたが、こんな結果とは…」と涙ながらに語っていた姿を多くの人も覚えているのではないでしょうか。しかも、これでも終わりません。持ち帰った骨を鑑定すると、どうやらめぐみさんの遺骨じゃないことがわかりました。そのとき、どんなお気持ちだったのか想像だけでも心がいたみます。

滋さんたちは、2014年には孫のウンギョンさんとモンゴルで会います。(ヘギョンの名が知れ渡ってましたが、本名はウンギョンで、ヘギョンは幼名)孫と過ごした5日間はそれはそれは楽しい時間だったそうです。

そんな滋さんが2020年6月5日、入院先の病院で亡くなりました。


1950年代の日本人は9割は自宅で死んでいました。それが現在は、9割は病院で亡くなっています。自宅で亡くなる人と、病院で亡くなる人の割合がちょうど交差する時期は、めぐみさんが拉致された時期と奇しくも重なります。

私たちは人の人生を外からみて、それが断片的で一面的な見方であっても、それを参照にして自分の人生を鑑みるものです。それは倫理的に正しいとか正しくないということではなく、人とはそういうものです。あの素朴で優しい語り口の滋さんには、他人には想像もできないような人生があったことでしょう。その最後をどのような気持ちで迎えられたのでしょうか。誰もがそれぞれの人生があり、その最後をどのように迎えるか、予想通りには行かないとわかっていても、考えることはできます。

このコロナ禍では、完全な社会の悪者となっている、カラオケやスナックですが、東京都立大学教授で「スナック研究会」を主催する谷口功一氏は、夜の社交の場としてそのような店が「公共圏」として役割を果たしていたと訴えています。例えば地方部では公的助成を受けた「夜の公民館」的なスナックや、要介護者のための「介護スナック」といった取り組みもあるといいます。

冒頭のカラオケスナックの経営者は生前に録音したカラオケを葬式で流し、遺族の方から、こんな一面もあったのか、元気な声がまた聴けてとてもうれしいと、これまで何度も感謝されたそうです。

横田滋さんの妻早紀江さんは、ほぼ毎日のようにお見舞いに通い、手足などをさすって話しかけていましたが、20年春からはコロナ感染防止のため面会もできなくなりました。そして最後は、孫のウンギョンさんにもう一度会いたいと、滋さんはおっしゃっていたようです。

 

 

感染防止も大切ですが、横田滋さんの人生を思いながら、たまにはスナックやカラオケでお酒を楽しんでみてはいかがでしょうか。

 

 

こんど塩田知事に会ったら伝えてください

塩田知事、はじめまして。

私は鹿屋市で小さな飲食店を13年やっています。以前の知事、三反園さんと伊藤さんはご来店いただきました。いや、別に塩田知事は来ないなぁと言いたいわけじゃないです。この大変な状況でうちなんかに来る時間はないとお察しいたします。(そこそこ美味しいと評判なんですよ、これでも)

 

報道によると、県は新型コロナウイルスの感染防止対策を適切に行っている飲食店に対する、新たな認証制度を6月28日に作る予定だそうですね。同じようなことを多くの県が行っていることは知っています。認証制度に当てはまらないことを理由に自粛要請の補償金を渡さないという県もあるようです。きっと塩田知事もきっとそうお考えなのでしょう。
私は政治家が分断を生むような政策をとるべきではないと考えていますので、認証制度の普及と補償金を関係つけるのは反対です。

 

もちろん、私たち飲食店は他の業種と比べ多くの補償金をもらっています。中には自粛期間に闇営業をしていた飲食店も、補償金対象ではないのにもらっている事業所もあることも知っています。けれど、こういう人は一定数出るものです。私の古い友人は役所の税務課にいながら自分の家族には税金がかからないようにずっと嘘の申告をしていました。どこにでも困ったやつはいるものです。細かいことに目を向けずに多くの困っている人たちを少しでも救えるような政策をとっていただきたいと思います。

 

これだけ長い自粛や緊急事態宣言が続いたら、人は我慢できないものです。少し住宅街を夜に歩いてみてください。自宅の庭で飲み会をしている家がとても多くなったことに気づくはずです。鹿児島県職員による、「少人数、短時間」の会食を呼びかける中、40人近い飲み会があった報道もありました。

 

コロナ感染経路の報道で最近目立つのは飲食店の割合の少なさです。例えば、静岡県での年末年始の感染事例を分析した報道では、飲食店3%、家族27%、知人5%、職場3%になっています。5月の福島県では、飲食店は9%に対して、家族35%、知人7%、職場20%。5月22日の産経新聞の報道でも新型コロナウイルスの感染者のうち感染経路が不明な人の割合が50%を超えて最大になったとあります。
ここ鹿屋市でも6月11日発表の感染者数の集計181人に対して、飲食店のクラスターは2人と市は発表しています。

これを見る限り、飲食店だけを厳しく取り締まる段階ではないのではないでしょうか。
もちろん、何かの対策をしないといけないのはわかります。個別訪問で確認することもしたらいいと思います。

 

私は個人的には、飲食店は営業自粛をお願いするならきっちりと補償金をくれと言うべきと考えています。補償金に関しても、みんな確定申告をしているはずです。それこそ個別訪問で確認してもらえばいい話です。一律に給付するので不正や疑心暗鬼も生まれます。認証制度で人と時間を使うくらいならこちらに人と時間を使い、それぞれの商売の規模にあった補償をするべきです。それが無理なら普通に営業をさせるしかないと思います。私たち商売人は基本的になんの保証もない状態が普通です。お客さんが来ずにつぶれるならそれも仕方ないと誰もが思っているはずです。


塩田知事が、この状況でやるべきことは飲食店の認証制度の普及よりも病床数の確保ではないでしょうか?

 

6月1日の南日本新聞の報道によると、

“鹿児島県は31日、新型コロナウイルスの感染者に対応する新たな病床確保計画を策定し運用を始めた。22床増えた最大確保病床419床のうち、重症向けは3床減の41床となった。県は「各医療機関に受け入れ可能な重症病床を改めて聞いた結果減った」と説明した。”

この状況で重症病床が減ったことにも驚きますが、病床数が400ちょっとしかないことにも驚いてしまいます。コロナが広まってもう一年半です。専門家ではないので私の認識が間違っているのかもしれませんが、ここ鹿児島県でも多いときは一日50人以上の感染者が発表されています。これから冬に向けて、この数字が3,4倍になることだって想定できます。季節性の感染爆発が起こらないとは誰も言えないはずです。もちろん、ワクチンが広まりそんなことはないのかもしれません。私も心からそうあってほしいと思っています。しかし、インドや台湾のように変異株によって感染が急激に増えることを、想定しておくべきではないでしょうか?

 

飲食店もみんながんばっています。菅総理が病床数が増えないことに、「日本は8割が民間の中小の病院で、政府としてもお願いしかできないのです。」と会見で言っていました。きっとそうなのでしょう。税金を使った皆保険制度に支えられて、医師の育成にも膨大な税金が投入されているのにお願いしかできない状況。そうなのでしょう。そんな医療法を改正できるのは政府与党しかいないのですが、そうなのでしょう。

同じように塩田知事もお願いしかできないのかもしれません。そうなのでしょう。
それなら、お願いしつづけるしかないのではないでしょうか?お願いして、お願いして、お願いすれば県民は知事にきっとついていくと思います。その県民の想いは医療関係者を動かすかもしれません。


私は、先の県知事選挙で「数年後に富士山が爆発して関東は壊滅、その後地方に人口は大移動して少子高齢化は解消するから、何もしなくていい」という公約をかかげた武田さんを面白いので応援してしまいました。反省しています。

しかし、今回、塩田知事ががんばっていただけたら、今度こそは塩田知事に投票しようと思います。

 

最後に、もう一度言いますが、以前の知事は食べに来てくれました。
違いました。これではなく。

飲食店への新しい認証制度を作るのもいいでしょう。それもやりたければやればいいと思います。多くの飲食店は限界まできています。自粛要請をするならしっかりと個別の状況にあった補償と、大変なお仕事とは思いますが一つでも多くの病床数の確保をお願い申し上げます。

 

生うどんつちや 土屋耕二

 

鹿屋のある情報誌にコラムを寄せました。

私は、鹿屋市笠之原で「生うどんつちや」といううどん屋を13年やっています。今回コラムを書かせていただくことになったのは、私は知人とフリーペーパーを作っており、ある方に相談をさせていただいたことがきっかけです。
フリーペーパーの名前は「やうやう」といいます。枕草子の冒頭「春はあけぼのやうやう白くなりゆく山際」からとっており、読み方は「やうやう」と書いて(ようよう)と読みます。が、私たちも含めてだれも(ようよう)と読んでいないので、今ではすっか
り、「やうやう」です。皆さんも好きに読んでいただけたらと思います。

新しいフリーペーパーを始めた私ですが、新しいことを始めるときにいつも頭に浮かぶ人物がいます。それは中田英寿です。
中田英寿は、当時Jリーグ、日本代表と活躍し、世界のトップリーグで成功した初めてのサッカー選手です。彼は、当時では珍しく自身のホームページを立ち上げ、既存のメディア対応、ファンとの交流、そして、自分が考えていることを自分の言葉で発信することをしていました。
2000年当初、中田の存在は時代のシンボルでした。新しい考え、新しい価値観、新しい時代。
中田だけではありません。ホリエモンこと堀江貴文が時代の寵児として話題にのぼりはじめたのもこのころです。
その頃に20代を過ごした私の実感としては、インターネットの普及、中田やホリエモンなどの新しい人間の登場、そして21世紀がはじまるという高揚感とともに、この社会は変わるというような雰囲気が確かにありました。そして、その息吹は風となり2009年8月30日にピークを迎えました。


あなたは言う。どうせ変わらないよと言う。政治には裏切られてきたと言う。しかし、あなたはこうも言う。こんな暮らしはうんざりだと。私は言う。あなた以外の誰が、この状況を変えられるのか。あなたの未来は、あなたが決める。そう気づいた時、つぶやきと舌打ちは、声と行動に変わる。そして、あなたは知る。あなたの力で、世の中を変えた時の達成感を。


このいささか感傷的な文章は、その日の全国紙の一面に民主党の広告として載ったものです。その日は第45回衆議院議員選挙の投票日であり、民主党の政権交代が実現した日でもあります。

もちろん、その後の顛末は多くの人が知る通りです。中田は引退し、ホリエモンは逮捕され、民主党政権は瓦解し、消えてなくなりました。

結局、この20年で私たちが学んだことは、雰囲気や空気感、風では何も変わらないことではないでしょうか。

最近、俳優の田中邦衛さんが亡くなりました。彼の人生をついやした代表作「北の国から」は、ドラマシリーズとしては20年前に終わっています。それでも脚本家の倉本聰は、ところどころで、続編の脚本や構想を書いては発表していることを考えると、あのドラマは、田中邦衛と倉本聰の私小説的な作品であり、田中邦衛が亡くなったことによってドラマは真の意味で終わったと言ってもいいと思います。
「北の国から」だけではありません。昨年は「男はつらいよ」の最後の作品があり、アニメでもつい先日に25年かけて終わったカルト的作品もありました。

これらの作品やその作り手に自分を重ねるなんておこがましいので、自分の仕事である飲食店を例にあげさせてください。先日あるとんかつ屋に行ったのですが、このコロナ禍のなかお客さんが次から次へと入っていました。飲食店なので繫盛の理由は、味や値段に、立地など色々な要素があるでしょう。その中でも私が考えるにその店の人気の一番の理由は、長く続けた店としての歴史が存在するからだと思っています。長いことやっていると飲食店は常連さんというものが少しずつできるものです。うちもうどん屋ですが、数多くの常連さんに支えられています。これからも小石を少しずつ積み上げるようにその数を増やしていくことが、繫盛店への道だと考えます。


紙面もあるので、そろそろ今回のコラムも終わりに向かいたいと思います。
2000年初頭にあったような、時代がかわる雰囲気はいまはどこにも存在しません。10年後にもないかもしれません。
しかし、その時代がどんな状況でも、私たち個人はそれには関係なく何かを続けることはできます。それは、サッカーなのか、ドラマや映画なのか、飲食店なのか、新聞やフリーペーパーなのかは、それぞれ違うでしょう。
時代はかわり、流行り廃りの頻度と上がり幅もここ数年は異常なことになっています。
それでも、何かを続けていつか振り返るとそこにそれまでやってきた道のりが残るようなものを残したいと思います。
何も変えることができなかったこの20年間で、私たちが学んだことはそれだけなのではないでしょうか。

今日もいい仕事した。

今日の仕事も終わりました。

平日の木曜日ですので、それほど忙しくはありいませんが、いつものように常連さんが食べに来てくれて、昨日も来てくれたお客さんが今日は違うメニューをと、来てくれて、昨夜食べに行ったレストランに来ていた(おそらく鹿児島市内から遊びにきていた方々)お客さんが食べに来てくれて、夕方に友人がお茶を飲みにふらっと遊びに来てくれて、といった感じでいつもどおりの営業でした。

 

なさけない話ですが、売上も特にないし、そもそも夜は営業してないので、「まぁ、こんなもんかな。」といった感じです。

それでいいと最近は思いますし、僕は恵まれているのかもしれないとすら思うようになりました。昔はあんなにうんざりしてたのにね。

いや、人間そんなに変わるものじゃないから、今だけなのかもしれませんが、とにかく今は、少しずつできるようになってきたスタッフと常連さんや、たまに来る友人、知人をできる範囲でしっかりした仕事で、満足してもらうことで、僕自身が満足しているような気もしています。

「今日もいい仕事した。」と。


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朝、出勤したら猫の親子がひなたぼっこしてた。

 

では。また明日。(書けたらね。)

 

地方発送もやってますので、各種SNSでご注文ください。

結構こだわってやってます。


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