読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

生うどんつちやブログ

鹿児島県鹿屋市にあるうどん屋です。

隅読に参加し、「おいしい」について考えました。

先のブログにも書きましたが、4月14日の『隅読』読書会は生うどんつちやにて行われました。

僕もそれなりに (人に誇れるほどではないのですが) 本を読むのが好きなので読書会には興味があり、オープン時間の11時までですが参加させていただきました。

読書会のテーマはうどん屋を意識してか、『おいしい』ということで、持っていく本をどれにしようかと考えました。

『おいしい』がテーマの本となると、料理関係の本やおいしい料理が出てくる本を連想します。

僕は専門書もふくめて料理関係の本はたくさん持っていますが、専門書ではさすがに話も出来ないかなと思い、他のものにすることにしました。

はじめは、村上龍の『はじめての夜 二度目の夜 最後の夜』にしようかと思いました。

(※これは、村上龍氏が、ハウステンボス総料理長上柿元勝氏 (鹿児島のご出身です。) の料理を食べて、驚き、心から感動して書こうと思った恋愛小説と言われています。)

この本にしようと思いましたが、僕は、その場に参加している中でおそらくは唯一、料理を作る側の人間なので、『おいしい』ものを作るとはどのようなことなのか、ということを考えさせられる本にしようと決めました。

そこで僕が選んだ本は、村上春樹の『走ることについて 語るときに 僕の語ること』です。

この本は村上春樹氏が走ることについて書いたものです。

エッセイというには長すぎるのですが、エッセイと言っていいと思います。

彼はデビューしてから、走るようになり、その後ずっと走り続けています。(メタファーも含め。)

村上春樹

この本は、走ることについて彼の経験(世界各地でのフルマラソンに参加)や考えを書いているだけではなく、人の持つ『才能』というものについて書かれた本であるとも言えます。

なぜならこのような章があります。

第四章『僕は小説を書く方法の多くを、道路を毎朝走ることから学んできた』

そこで彼が書いているのは

僕自身について語るなら、僕は小説を書くことについての多くを、道路を毎朝走ることから学んできた。自然に、フィジカルに、そして実務的にどの程度、どこまで自分を厳しく追い込んでいけばいいのか?どれくらいの休養が正当であって、どこからが休みすぎになるのか? どこまでが妥当な一貫性であって、どこからが偏狭さになるのか? どれくらい外部の風景を意識しなくてはならず、どれくらい内部に深く集中すればいいのか? どれくらい自分の能力を確信し、どれくらい自分を疑えばいいのか? もし僕が小説家になったとき、思い立って長距離を走り始めなかったとしたら、僕の書いている作品は、今あるものとは少なからず違ったものになっていたのではないかという気がする。

勘違いしてほしくないのですが、僕が作るうどんが彼の小説と同じように価値があるとか(畏れ多い)、うどんに関してだけは、彼の小説を書く才能と引けを取らないとか言っているわけではありません。

「おいしい」ものを作るには、「技術」が必要です。そして、それを毎日の営業で提供していくためには「体力」と「考え方」が必要です。

彼はこの本で、小説家に必要なものは、第一に「才能」、その次は「集中力」と「持続力」と書いています。

そして、このようにも書いています。

才能にそれほど恵まれていない――というか水準ぎりぎりのところでやっていかざるを得ない――作家たちは、若いうちから自前でなんとか筋力をつけていかなくてはならない。彼らは訓練によって集中力を養い、持続力を増進させていく。そしてそれらの資質を(ある程度まで)才能の「代用品」として使うことを余儀なくされる。しかしそのようにしてなんとか「しのいで」いるうちに、自らのなかに隠されていた本物の才能に巡り合うこともある。スコップを使って、汗水を流しながらせっせと足元に穴を掘っているうちにずっと奥深くに眠っていた秘密の水脈にたまたまぶちあたったわけだ。まさに幸運と呼ぶべきだろう。しかしそのような「幸運」が可能になったのも、もとはといえば、深い穴を掘り進めるだけの確かな筋力を、訓練によって身につけてきたからなのだ。

僕は修業に行き、それを(文字通り)命からがらなんとか終えて、実際に自分で一からうどん屋を開業しました。

その道程は、ドタバタとあっちにぶつかり、こっちにぶつかりしながら、自分を(おそらくは周りの人も)ボコボコにしながら今日までやってきました。

それは、とてもヘビーな日々でした。

そんな経験を経て、今僕が思うのは、新鮮な素材、特別な調味料、それと誰もが知らない秘密の配合で『おいしい』料理ができるわけではないということです。

『おいしい』ものを作るためには、長い負荷とそれによる体の使い方や料理や仕事に対する考え方の矯正が必要です。

ある種のプロセスは何をもってしても変更を受け付けない、僕はそう思う。そしてそのプロセスとどうしても共存しなくてはならないとしたら、僕らにできるのは、執拗な反復によって自分を変更させ(あるいは歪ませ)、そのプロセスを自らの人格の一部として取り込んでいくことだけだ。

やれやれ。

修業中から、どんな環境にいて、何を考え、何を見ようとして、何を食べてきたのかが大きなウエイトをしめます。

もっと言えば、同じ環境でも何を得るかは、その人次第と考えると、修業前からのその人の歩みが『おいしい』を作るということもできます。

それまでやってきたことと、これからやっていきたいことの常に中間に、途上に、『おいしい』というものがあるのではないか。

そのように最近思います。

一つの料理は、その料理人の、そういった行為のそれまでの一連の帰結であると。

村上春樹さんといえば、最近は新刊がでましたね。

『色彩を持たない 多崎つくると、 彼の巡礼の年』

これも一つの見方として『才能』というものが大きなテーマであると言ってもいいと思います。

そして、(最近読み終わったのですが)その自分が持っている才能から人は逃れることはできないのかもしれないということも思いました。